|
 8月13日 暑い 安ホテル   |
|
|
 カフェのテラスからのナポリの絶景 |
|
「ナポリを見てから死ね」。かつてギリシャの植民地だったナポリはずっとギリシャ式の風俗習慣を持ち続けてきた。その後ビザンティン、ノルマン、フランスと次々に支配されてきた屈従の歴史。典型的なイタリア人のイメージはこの町から来ている。世界3大美港の一つ。
朝シャワーを浴びて駅へ荷物を。この街とにかく危険な感じがする。お金をねだる子供やからんでくる奴が他のイタリアの町に比べて多い。これが”南イタリア”なのか? カブアナ門とカブアナ城を見た後、道に迷って変な教会へたどり着く。本当の目的地は 110.ドゥオモ(3)(Duomo)。ここは修理中で中に入ったけど他のものに比べてシンプルで少しみすぼらしい。地下があって入ったけどこれもぱっとしなかった。ボヴィオ広場を抜けた後は 111.ヌォーヴォ城(3)(Castel Nuovo)へ。ここには小さな絵画館が中にあるぐらいだったけど外見は結構かっこいい。この絵画館の内部はどこをどう歩けばいいのか分からなくて不親切な所。小さな教会もあったけど十字架以外ほとんど何も無くあったのは椅子だけ。 112.王宮(3)(Palazzo Reale)もシンプルでもちろんいろいろ展示してあったけどいかんせん粗野だった。入場料は800円ほどだったけど国際学生初を見せたらただで入れた。普通ヨーロッパ系の人しか割り引きはしないけど無理やり押しきった。ここから見たナポリ港も普通の港で特別な物でない。プレビシート広場とサン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会はなかなか豪華な雰囲気。ガレリア・ウンベルト(要は商店街)へ行った後はケーブルカーでナポリの西にある丘に登った。スーパーがあったので食料を買い足して少し休憩。メロンを食べた後はサン・マルティーノ修道院へ。ここは結構大きい建物だったけど時間外で入れない。修道院の手前にある道を少し南に行くとナポリの街を見渡せるところがあった。ナポリで最高にいい場所で、言葉では説明しにくいけど先が袋小路になっていたので行きたかったら何とか自分で探してほしい。近くのレストラン(カフェ)でカプチーノを飲みながらボーとするのがお勧め。ここから有名な古代都市ポンペイを埋没させたヴェスヴィオ火山も見える。なぜか町にはスモッグがかかっていて遠くの方までは見渡せなかった。それにしてもきれいな所でカフェにはテラスがあるのでそこの一番先に腰掛けているだけで満足。ナポリは観光地がほとんど2時で閉まってしまうので効率よく周れない。その後丘から歩いてホテルへ。ただ丘から大きな道に出るのが大変で小さな路地はいっぱいあったけどなかなか探せない。スーパーで買った物でかばんが重かったのでなにかあったら危なかったと思うけど。途中でベランダから小さなガキが”ジャポネーゼ”と叫んでいる。こういう時振り返ったり立ち止まったりすると厄介。そのまま歩きながら中指を立てて振りかざすとぴたっと止まったのが面白かった。この街特に危険ぽい。ここの人たちには教育だとか教養だとか行ったものが全く感じられなかった。平気で横入りしてくるしそれに対して悪びれたそぶりもしない。気にしないならいいけど気にするのなら(むかつくなら)”なにしてんだよ”と言うべき。日本人は相手に迷惑をかけては行けないというのが普通だけどそんなことをしているとイタリア人はどんどん割り込んでくる。相手は英語が全く分からない(分かるような奴は割り込んでこない)。またイタリアでは定価と言ったものが無い。コカコーラにしても場所でバラバラ。昨日泊まったホテルにまた戻ったけど今日は割引してくれるとか。全く同じ部屋だったけど。これが最低だと言われても信じられない。部屋でシャワーでも浴びようと思ってリュックを開けるとスーパーで買ったヨーグルトが破裂している。2つ買った物を重ねて置いたら一方がもう一方にすっぽり入っている。慌ててすべて荷物を取り出して洗ったけど幸い臭くわなかったのでよかった。牛乳系は腐ると特に臭いので。ここらへんまで来ると物がきれい、汚いはどうでもよくなってくる。風呂に一日入らないというのもたびたびあるので。どうもあまりぱっとしない一日だったので気分を変えるためにレストランで夕食。そう言えば修道院から帰ってくる時にサングラスが壊れたのも不吉だったけど。とりあえずボンゴレを2皿ぺろりと食べて宿へ。明日はギリシャに向けて出発。 |
 プレビシート広場
 ヴェスヴィオ火山 |
|
 8月14日 暑い 船上   |
|
|
朝7時起き。 どうもナポリからブリンディシ(ギリシャ行きのフェリー乗り場)までのいい列車がなく直接行く列車は予約がいっぱい。昨日も何とか探してみたけど、どうもないのでローカル線を乗り継いで行くことに。 |
|
 ナポリ → カセルタ → バリ → ブリンディシ |
|
|
列車の中はほとんどギリシャに行く観光客でいっぱい。駅に着いた後は駅前の道をずーとまっすぐ。港に着くと右に曲がる。自分のフェリー会社は港の端にあったのでこれでいいのかなと思いつつ前進した。ここで日本人、太郎と出会う。 |

|
太郎: ギリシャ行きのフェリー乗り場で出会った日本人。将来料理人になってイタリアで店を持ちたいという野心家。まだまだ若いのでぜひ達成してほしいけど。 |
|
しばらく並んだ後は自分の席へ。チケットにはデッキと書いてあるのでまさかと思ったけど 案内された先は船の甲板。そのまま12時間。船の後ろの方の席がお勧めで、夜中は風が強く湿っているので風をよけられるような場所でないときつい。(寝袋を持って行ったほうがいい)特に海風で湿った風邪はべたべたしていて夜中は暖かいけど体感温度は結構寒い。セーターとジーンズにソックスをはいて睡眠。ここで他の韓国人と合流。 |

|
キム: 韓国人でもっともモダンな名前の金。他の2人の韓国人としばらく一緒に旅をしていたみたい。その前にイスラエルに行ってボランティアをしていたと言う一癖ある人。自分よりも貧乏旅行をしていた。 |
|
 ブリンディシ → パトラ  |
|
|
 8月15日 暑い ユース   |
|
|
もちろんデッキでなければ部屋にベットと毛布、枕ぐらいあるだろうからぐっすり寝られる。 途中、寒すぎて4時頃起きる。船の中にカフェがあるのでそこでしばし睡眠。風邪だけは旅行中にひきたくない。太郎がウォッカを持っていたのでみんなでコカコーラで割って飲む。みんな旅行中にやっていることは一緒で何とか安く過そうと必死。ギリシャは時差が1時間あったので時計の針を回す。この港、臭くて何からしい国に来たなと言う感じ。いつも通りに暑かったけどすぐ行動開始。船の会社で帰りの船の予約変更をしようと思っても予約がいっぱいでできないとか。ローマではブリンディシに行けばできると言っていたし、ブリンディシではパトラに行けばできるとか。結局たらい回しにされたけど早めにあきらめて現金の入手へ。イタリア人もギリシャ人もそんなに勤勉な国民ではないのは確か。ここの物価は驚くほど安い。水500mlが100Dr(ドラクマ)(50円)ほどしかしない。これからいい旅がおくれそう。駅は港から右へずっと歩くとすぐに見つかる小さな建物。ユーレイルパスを持っていても窓口で切符をもらうこと。無料だけどこれをもらわないと車内で罰金を払う事になる。席はほとんどいっぱいで驚いたのは列車内にクーラーがかかっていてこと。快適にアテネまで行けそう。 |
|
 パトラ → アテネ |
|
|
後から切符をもらわなくて2100Drの罰金を払った人がいた。着いてすぐに韓国人はホテル探しへ。 まるで軍隊のように散って、それぞれ値段を聞いてくる。結局1500Dr(750円)に泊まる事に。ここで日本人のもう一人の友達、由紀と合う。その後日本人とパルテノン神殿へ。 |

|
由紀: アテナ駅のあたりをぶらぶらしていたので一緒のホテルに泊まる事に。九州出身とかでさすがに飯塚は知っていた。すでに数ヶ月旅行をしていて筋金入りの旅行家といった感じ。 |
|
アテネを訪れる外国からの観光客は年間ざっと530万人を越える。そのほとんどがアクロポリスの丘に登る。2400余年の歴史を刻んだアテネの神殿、パルテノン。46本の大理石の柱が抜けるような青空をバックにエーゲ海の強い日差しを受けて荘厳な雰囲気を漂わせている。「ギリシャの天才達」の面影は微塵も感じられないけどここが世界文化(ヨーロッパ)の発祥の地の一つであるのは事実。紀元前8世紀頃に古代都市が形成され紀元前5世紀頃に古代ギリシャの文化の中心地に成る。
日本人軍団、太郎と由紀と自分で誰もが知っている パルテノン神殿へ。着いたのが遅かったので閉まっていて柵が巡らされていた。そこで夕食を取る。なんとも地中海と言った建物がいっぱいあってもちろん壁は真っ白。ここではムサカを食べる。それから 113.リカヴィトスの丘(5)(Lykavitos)へ。ここからの夜景は最高にきれい。ただ他のヨーロッパの感覚で夕日を見に行ったら日没が早く見れなかったのが非常に残念。日没はこの時期、8時頃だったと思う。ここで韓国人部隊と合流。風があってパルテノン神殿もライトアップされてきれいだった。9時頃にはライトアップも終わってしまった。ここのケーブルカーはシンプルで距離にすると100m位しかなくて片道2分程。15〜20分間隔で運行されていたと思う。夜10時半までいて帰った後はシャワーを浴びる。ここのホテルのシャワーのお湯が出なくて困った。チェックインの前にチェックした時は出ていたのに。水でシャワーを浴びているようなもので心臓が止まりそうなほど。浴びた後フロントに聞いたところボイラーのスイッチを切っていたとか。後の二人は普通に浴びれたみたい。 |
|
 8月16日 暑い ユース   |
|
|
今日は昨日行って入れなかったパルテノン神殿へ。行く途中飲んだ アイスコーヒーは甘ったるいけど癖になる味。ギリシャ料理は昨日でこりたのでスパゲッティーを食べる。 114.パルテノン神殿(4)(Naostoo Parthenonos)はまさに古代のままどーんと立っている。西洋文化の原点であり、古代ギリシャの象徴でもあるこの神殿はおそらく2000年前と同じ様にさんさんと降り注ぐ太陽の下でこうして立ってきたのかと思うとイタリアよりも古いギリシャの歴史を感じる。ここからはほとんどの遺跡が見れて、ゼウス神殿もあったけどこの暑さ、あきらめる。要は石ころが立っているだけで見たって何も歴史を感じることもできない。ギリシャははっきり言って古代の遺跡以外は何もない。最初は3〜4日いようと思ったけどすぐにイタリアに帰ることに。Plakaと呼ばれるパルテノン神殿の下に広がる旧市街は土産物屋であふれている。日曜だけ開いている所が多いらしくちょうどこの日は日曜日。ナポリで壊れたサングラスの代わりと指輪を買った。(この指輪は松永さんに搾取されました)寝袋が2500円からあって安かったけどこれから北に向かうしリュックにくくり付けるようなスペースがなかったのであきらめる。ギリシャで物を安く買うには絶対にこれをくれと言ってお金を出しては行けない。これだけまけたら払ってもいいぐらい値段を下げさせてから財布を取り出さないと財布を最初に取り出すとそれ以上は下がらない。下げてもらえなかったら立ち去るぐらいのふりをしないと。それでもついてこなければそれが日本人への最低値だと思っていい。他にも店はいくらでもあることを忘れずに。ここに4時半頃までゆっくりぶらついた後は宿へ。帰ってから由紀と夕食へプラカへ。野郎と食べることばかりだったので断然うまい。プラカの辺りに行けば観光客用のレストランが山ほどあって、セットメニューで安かったので頼むとスパゲッティーにサラダ、フルーツまで出てくる。最後はアイスコーヒーを飲んで腹一杯。ここらへんの土産は数時間前までは閉まっていたのに夕暮れ時になるといっせいに開店し始める。おそらく夕食でも取っていたのだろう。とにかく物が安い国だけど何もない国。寝袋さえあればビーチに行って寝る事もできるのがギリシャ。(実際そうゆうバックパッカーが多い)市内観光をする所があまりなく計画変更でどうなるか分からないけどとにかく寝よう。夜は蚊が多いし、大通りに面していたのでうるさい。明日はいちかばちかフェリー乗り場に戻って切符を手に入れよう。だめだったらそこで寝ればいいし。(何とも勇ましいけどこの頃になると超楽天家になる) |
 114.パルテノン神殿
114.Vol2
 神殿からの景色 |
|
 8月17日 暑い 船上   |
|
|
朝起きてまずフェリー会社のオフィースへ。予想通り開いていない。開いていないと言うよりも営業していないみたい。仕方なくスーパーへ行って食料品の買い出し。ここで買った いわしの大豆油漬けは結構美味しかった。やはりあの塩味は日本人であれば恋しくなるもの。ビタミン補給にバナナも買ってもう一度オフィースに行ってもやはりダメ。仕方なくアテナからパトラに出発。 |
|
 アテナ → パトラ |
|
|
オフィスに行ってみるとチケットはあるとか。2日前に予約でいっぱいと言っていたのに。(南欧はこんなもんだ) 予約がいっぱいだといわれて寝台のチケットを買わされた人もいた。ユーレイルパスは2社で使えるし帰ろうと思えばフェリー会社はいっぱいある。雰囲気では山ほどあまっているみたい。予約変更していなかったのに追加料金を取られなかったのはよかったけど。その場で帰る日をボールペンで書き換えてくれた。出国税もなかった。(イタリアからギリシャに行く時は出国税と言うものを払う必要がある)いい商売している。メロンと(また)焼きトウモロコシを買って乗船。この焼きトウモロコシがまたうまい。フェリー乗り場の近くで売っていて300Dr(150円)と安かった。日本の屋台を思い出してしまった。キムと一緒に夕食を取って(サンドイッチ)何もすることもなく数時間食っちゃべって寝る。今度は長椅子の下に潜り込んで寝た。汚かったけど風邪さえひかなければそれでいい。キムが毛布を貸してくれたのでかなり助かった。 |
|
 パトラ → ブリンディシ  |
|
|
 ギリシャ人とは?  |
|
|
ヨーロッパ文明の故郷として知られているギリシャ。 あのローマ帝国ですらギリシャ文明の域を出なかったぐらいで、多くの学問が紀元前にすでに存在し証明され現代にいたっても通用する物を生み出した国。ギリシャも滞在が短かったのであまり感想がないけど、のびのびしていて陽気な人種なのは確か。仕事嫌いなのも確かでアテネの店も平日でありながら閉まっている所がぽろぽろあるのがその証拠。昼間も街中にそれほどビジネスマンらしき人もいなかったし多くが観光客なのは自然だった。英語も片言ぐらいにはしゃべるけどそれ以上は望めない。日が暮れてから小さなレストランでおしゃべりするのが日課のようで長い夕食を取る。ゆったりした生活だけどその代わりにギリシャには歴史と遺跡以外は何も今はない。もっぱら観光が主の小さな国。 |
|
 8月18日 暑い 安ホテル   |
|
|
起きてまずサンドイッチにメロンを半分ずつ食べる。降船時に 入国のスタンプをこの旅初めて押される。どうもヨーロッパ系以外の人にのみらしい。そこからは列車の駅へ。ここからは長い列車の旅がまた始まる。 |
|
 ブリンディシ → バリ → フォッジア → カセルタ → ナポリ |
|
|
丸一日かかった。 たった500Km位しか移動していないのに。途中フォッジアで休憩しよう下車するとマックの看板を発見。歩いて10分と書いたあったのに歩けどない。重い荷物をキムもしょって歩くこと20分程。何もそれらしき物はないので近くの店で聞いてみると、ここから更に30分程かかるという。イタリアはこれだから困る。とりあえずバーによってサンドイッチとコカコーラを飲む。ナポリに着いたのが午後7時半。前と一緒の安ホテルに行ってさっそく値段交渉してみるもののなかなかまけてくれない。とりあえずそこに決定してその後はキムと夕食へ。自分はいつもどおりスパゲッティ、キムはピザを。外に席が空いていなくて30分もど待って席に着く(中の席は暑い)。隣に座っていたアイルランド人と少し話をして、アドレスをもらう。暇があれば遊びに来いとか。こういう予期しない事があるのも旅の楽しみの一つ。この人たちが食べていたのはスパゲッティ(チーズたっぷりのカルボナーラ)に白ワイン、ここまではヨーロッパ人らしいけどその後にフライドポテトを食べていたのがアイルランド人らしい。(世界中で一番ジャガイモを食べるのがアイルランド人)その後はバクスイ。明日はポンペイへ。 |
|
 8月19日 過し易い 友人宅   |
|
|
朝起きてスーパーを探して食糧を買い足した後はキムのために両替所に。 そしてヴェズヴィオ火山によって西暦79年に埋没した 115.ポンペイ(3)(Pompei)へ。ここはナポリから周遊鉄道で40分程(ユーレイルパス不可)。国鉄でも行くことができてユーレイルパスも使用可能だけど駅からかなり歩かないと行けないらしい。1748年に発掘が始められるまでずっと地に埋もれていたという古代都市。駅からは目の前の道をすぐに右に曲がれば数分で着いてしまう。チケットを買うために山ほど人がいてそれに加えて今日も暑い。結局30分程待つことに。イタリア人よ、働け。中に入るとまずその大きさに驚いてしまう。古代都市とは言っても大きな集落程度の物を予想していたけど実際は小さな町ぐらいの大きさがあった。こんな大きな町が一瞬に埋没してしまうほどの噴火とはどんな物だったのだろうか?同時に、これを掘り起こしたのかと思うとこれまたすごい。ただし、要は廃虚と化した町であって壊れた石造りの町が延々と続くのですべて見ようとは思わなかった。ここでも地図を買うことをお勧め。地図は遺跡の中には数えるほどしかなくてまた自分がどこを歩いているのかも分かりにくい。一度は行く価値がある所。そこからナポリへ戻った後はローマへ。 |
 115.ポンペイ |
|
 ナポリ → ローマ |
|
|
4時半に到着後は3時間程の乗り継ぎ時間、ボーと過ごす。行きたい所はあったけど閉館時間は過ぎていたのでとりあえず葉書を送るために郵便局へ。ここでドイツ人の友達に電話をして滞在可能かをチェック。イタリア人の友達(フィレンツエ)は捕まらなかったのでユースに泊まる事になるかも。マックで時間をつぶした後は 花の都、フィレンツエへ。 |
|
|
 ローマ → フィレンツエ |
|
|
駅に着いた後はルイーニに電話して強引に泊めてもらう事に。 30分程で来てくれるとかで今日の宿はこの友人宅。髪を切って別人のようだったけどなにか上品なイタリア人と言った感じ。家にいた犬がまた元気に迎えてくれる。夕食のパスタをご馳走になってうれしいかぎり。ボーノ。 |

|
ルイーニ: ホストファミリーに滞在中にやって来たイタリア人3人のうちの一人。5歳ほど年下でイタリア人らしくサッカーに夢中。もちろん彼のお気に入りのチームはフィオレンティーナ。(フィレンツエのクラブチーム) |
|
 8月20日 少し過し易い 安ホテル   |
|
|
起きてすぐに駅へ荷物を預けに。荷物代はルイーニが払ってくれた。10日程前に観光して以来のフィレンツエ。 116.ドゥオモ美術館(3)(Museo dell' Opera di S.Maria del Fiore)へ最初に行った後は 117.メディチ家礼拝堂(4)(Cappelle Medicee)へ。まず礼拝堂へ。ここは黒や赤や色の石がふんだんに使われていて小さな部屋だったけど豪華。彫刻も少し変わっていた。天井や壁にもきんきら金のモザイクや絵が山ほどあって小奇麗にまとまっていた。重みがあるといった感じでメディチ家の紋章がいたる所にあった。6つのポッチが菱形のように並んでいるもの。ここにある宝石類はドゥオモと同様に中に人の骨が入っている。聖職者の物らしいけど友達が言うには普通の人の物を入れたらしい。神秘性を出すためらしいけどとにかくあごから腕、でん部などいろいろなものが入っていた。これはイタリアの多くの美術館で見られた。ミケランジェロの彫刻もあったけど大して印象はない。この周りはノミの市になっていていろいろな露店があった。入口は教会の裏側。ヴェッキオ橋を渡ったけどこの橋は両側が宝石店で埋め尽くされていた。橋と言うより短い通りと言った感じ。その後にピッティ宮殿に行ってその中の一つ 118.パラティーナ美術館(3)(Galleria Palatina)へ。久しぶりの美術館だったけど時間がないと友達が言うのでゆっくり回れず30分程の鑑賞。もう一つ行きたかった近代美術館には行けなかった。ピッティ宮殿には5つの美術館が入っている。その後友達のおやじの知り合いのレストランに行った。ここはこの旅でももっとも高い最初で最後のちゃんとしたレストラン。パスタにステーキにチーズケーキをまさに腹一杯食べる。それも友達持ちで完璧だった。前菜もきっちり出てきてかなり高かったと思う。有名人も来ていたみたいで壁にクローディア・シィファーの写真もあった。豪勢な昼食の後は 119.ウフィツ美術館(5)(Galleria degli Uffizi)へ。ここはいつも長い列があって並ばないと入れない。12時頃が空いていたみたい。ドゥオモのクーポラに登ろうとしたけど列が長かったのであきらめた。駅へ帰る途中のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会を見て駅へ。イタリア最後の観光地ヴェネツィアへ。フィレンツエからヴェネツィアへ行く時にはSMN(サンタ・マリア・ノヴェッラ駅)からは直接行けないので近くの駅まで列車で行って乗り換えないといけない。 |
 ダヴィンチの落書き? |
|
 フィレンツエ → ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅  |
|
|
アドリア海の女王・水の都ヴェネツィア。177の運河と118の島、その間を400の橋が渡る。13世紀から15世紀にかけて、ヴェネツィアは東西貿易に伴なう海運業の繁栄によって最盛期を迎える。その後、喜望峰周りのインド航路の発見や、トルコの勢力拡大によって衰退してしまう。ナポレオンに独立を奪われた後、オーストリア領になったけどその後1866年にイタリア王国に併合。
ヴェネツィアに着いてまず目に入ったのは運河とそこに浮かぶヴァポレット、ゴンドラ。 この街には車という車は全くない。要は小さな島で、島の中の道はすべて歩行者用の物で石畳。アスファルトの道路は確か一度も見たことがない。歴史のある美しい街、ヴェネツィアだけど、自分にとっては今日の宿を見つけ出すほうが現実的。最初に言った宿はすでに満員。なんせ着いたのが9時半頃だったので残っているものはあまりないはず。仕方なく歩いていると橋が目の前に、これを渡ってしまうとこれからかなり歩きそうだったので引き返して妥協策を考え始める。また重い荷物と一緒に歩きまわるのかと思った矢先にホテルの看板を発見。とにかく行ってみるとドミトリーがあるとかで値段も納得。ただ実際はドミトリーとは程遠く屋根裏部屋にベットが並んでいるだけ。戸もなくシーツ一枚置いてあるだけ。今までのどこよりも質素だった(ユースの方がまだまし)けど泊まる所があっただけまし。ここのトイレからは夜空が見えたので便器から出窓をくぐって屋根に登る。夜は過ごしやすい気温で煙草を吸いながらしばらく夜空を眺める。当然と言えばそれまでだけど、夜空はいつもどこでも一緒なのには少し納得。 |

|
 8月21日 快適 安ホテル   |
|
この街タクシーも当然船。ゴンドラがそれで、加えて想像しがたいのが水上バス。ヴァポレットと呼ばれていて機能的にはバスと一緒だけど想像と実際はかなり違う。 まず大運河沿いをヴァポレットでサン・マルコ広場まで駅から約30分位進むといい。S字型に運河が流れていて、その両脇には観光地が並んでいる。当然すべての岸には桟橋があってたいていどこからでも降りれるようになっている。船の中から景色を楽しむのはなかなか難しくいつも客でいっぱいなので一番先頭の席に座りたいところ。ただみんな考えていることでまず無理。最初はヴェネツィアで一番有名なサン・マルコ寺院で降りる。ここからは対岸のサンタ・マリア・デラ・サルーテ教会とサン・ジョルジョ・マジョーレ島が見えて最高に中世的。ただ寺院の周りで目に飛び込むのは長蛇の列と無数の鳩。まずは街の全体像をつかもうと 120.サン・マルコ広場の鐘楼(4)(Companile)に登る。ここからの眺めは赤茶色の屋根と運河のみのヴェネツァの街を楽しむには最高。ヴェネツィアに来たなと思うところ。ヴェネツィアの建物の屋根は赤茶色なのに対してはるかかなたに見える本土の家はすべて真っ白。ヴェネツィアが本土と完全に分かれて独立しているのが分かる。次ぎは 121.コレール博物館(3)へ。ここは博物館とも美術館とも言える場所でヴェネツィアの歴史が絵や地球儀などいろいろな物で分かるように工夫されている。広場の喧騒さからは全く隔離されていてクーラーの中、がらがらの館内をゆっくり見て回れた。ここでチケットを買うとドウカーレ宮殿のものも含まれているのでチケットを買う時間が省ける。(どこも長蛇の列)涼んだ後は 122.サン・マルコ寺院(4)(Basilica San Marco)へ。9世紀にエジプトから運ばれた聖マルコの遺体をおさめるために作られた寺院で何度か修復されたみたい。入口上部にある4頭の青銅馬像は13世紀にヴェネツィアの十字軍がコンスタンチノープルより持ち帰ったもの。ここの内部は金ぴかで飾られていたけどなんか品がないという感じ。内部よりもおうおうにして外からの景色の方がいいのが教会で、ここもその一つ。その後はヴァポレットで対岸のサンタ・マリア・デラ・サルーテ教会へ。この教会は開いていないみたいだったので島の先頭へ行ってしばし休憩。ヴェネツィアの町は運河が島の中を流れているというより街が海の上に浮いているみたいで海面と堤防の差は30〜50cmほどしかない。もちろん防波堤のような物はなく堤防はすべてコンクリートか石で整備されている。堤防近くには杭が打ち込まれていてその間にゴンドラなどが止めてあるといった感じ。休憩した後は岸辺を少し歩いてアカデミア美術館へ向かう。ただ途中に思いがけず 123.グッゲンハイム美術館(5)(Solomon R.Guggenheim Museum)を見つけたので立ち寄る。 124.アカデミア美術館(3)(Galleria dell' Accademia)へ言った後は 125.サン・ロッコ教会(2)(S.Recco)へ。こじんまりした教会で祈っている人がいたので観光地とは言えなかったけど。サン・ロッコ信者会はすでに閉館していたので 126.サンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ教会(3)(Santa Maria Gloriosa dei Frari)の脇を抜けてリアルト橋へ。この教会は元の十字架型の教会に何かをくっつけたようないびつな形をしていて一つの巨大な門などの形をした石像がどんと4〜5個置いてある。天井等はいたって質素。途中サン・シルベストロ教会の近くで夕食。イカ墨スパゲッティにイカスミのイカの煮付け、そしてサラダ。新鮮でなかったのが残念だったけどイカ自体は柔らかかった。今日はこれで観光終了。今日も暑かったけど海に面しているので海風が吹いて過ごしやすかった。街中を歩きまわるだけでも楽しい街、ヴェネツァ。 |
 122.サン・マルコ寺院
 120.鐘楼からの景色
 120.Vol2
120.Vol3 120.Vol4
 122.サン・マルコ寺院
123.グッゲンハイム美術館
123.Vol2
運河 Vol2
Vol3 |

 |
いかにもヴェネツィアらしい水上バスのヴァポレット。 ヴァポレット乗り場は運河に浮いていて切符をチェックする人は特にいない。行き先は船の先の方に書いてあるのみで乗り場で上り下りが別れている所もある。左から右に進行方向が書いてあって途中Uターンするようなことはもちろんない。要はNo1ならローマ広場行きかリド島行きで一度乗ればどちら行きかは大体分かる。停船する時に乗り場にこつんとぶつかり船を固定する係員が独特の結び方でひもを巻きつけてドアを開ける。出発時は一度バックしてそれから前進。船の扱いを知っているなといった感じ。面白いのは時々細い運河に入る時などに見かける船の交通標識。ゴンドラ専用の狭い運河には進入禁止のサインがあったりしたけどスピード制限はなかったみたい。町全体に運河が流れているので道もそれにあわせてくねくね曲がっている。運河沿いに歩いていても行き止まりがしょっちゅうあるので運河にぶつかれば引き返すのみ。いらいらするのは対岸に渡りたくても橋がしょちゅうあるわけではないので遠回りをしないといけない事。そうでなければゴンドラを使ってたった数十メートルにお金を払って渡るか。(または泳げ)”急がば回れ”ということわざはこの街のためにあるのかもしれない。 |
|
 8月22日 少し暑い 夜行   |
|
|
朝起きてまずコインランドリーへ。行っても開いていないのは痛かった。 ここ数日同じ服を着ている(下着も)。洗っても完全には乾かないので洗いようがない。仕方なく宿への帰りがけにTシャツを買って着る。気持ちいい。汚いというな!時間に追われると洗う時間はなかなかない。まず 127.カ・ドーレ(2)(Ca' d'Oro)へ。昔は”黄金の宮殿”と呼ばれたらしいけど今は特に特徴のない建物。中庭もきれいな物でもなくいまいち。ただ中に 128.フランケッティ美術館(2)(Galleria G.Franchetti)が入っているぐらい。カ・ドーロの対岸を少し行くとマーケットが広がっていてほとんどの店はフルーツを扱っていた。魚屋もあってあの魚の匂いをかぐと日本に帰りたくなった。昨日開いていなかった 129.サン・ロッコ信者会(4)(Scuola Grande di San Rocco)へ。ここは行く価値があると思った所で1階と2階の壁と天井に宗教画が所せましと描かれている。日本語のパンフレットを片手に薄暗い館内をぐるぐる歩く。ただそれぞれの絵は目線よりも上か天井にあるので首が折れそうになる。大きな鏡の貸し出しもあるみたいで使うといいかも。2階には部屋が2つあって受胎告知や最後の晩餐、アダムとイブといった誰もが知っているものが多かった。他のイタリアの都市の物と比べると面白い。レッォニコ宮は今日も閉まっていたので行けなかった。その後サン・マジョルジョ・マジョーレ島へ。教会が昼の休憩のために閉まっていたのでヴェネツイアン・ガラスで有名なムラーノ島へ。街中がガラスの美術館のようで 130.ガラス美術館(1)(Museo Vetrario)へ行ったものの街のお店に並んでいる物のほうが絶対にいい。ひびが入っている物や割れている物ばかりで基本的にガラスの歴史を展示した美術館。とにかくきれいな物ばかりで見とれてしまうけど同時に驚くほど高い。くれぐれもリュック等で棚から落としたりしないように。船から下りて誰かが客引きっぽい事をしていたら着いて行ってみよう。ガラス細工作りの実演を無料で見せてくれる。中は薄く引き延ばされた金箔のように薄いきらきらでぴらぴらのガラスの破片がいぱい地面に落ちている。道具を使ってつまんで、切ってで一個簡単に作ってしまう。キャンディーの形をしたガラス細工が置いてあるので買っては?10個ぐらいで千円ほどのセットになっている。値段の交渉はしてもなかなか値引きしてくれない。ここから本島に向けての船に乗って行ったヴェネツィア最後の観光地、 131.サン・ジョルジョ・マジョーレ教会(5)(S.Giorgio Maggiore)。この協会内は質素そのもので見るものもあまりないので一通り見たらエレベーターで鐘楼へ登ろう。エレベーターの中で聖職者が運転してくれるのでそこで料金を払おう。驚くことに観光客がほとんどいない。ここからの展望はこの旅の中で最高だった。ヴェネツィアの総てが見えて一方にはサン・マルコ広場とドウカーレ宮殿、人人人の塊が見えてこの展望台とは全く違う。もう一方にはサンタ・マリア・デラ・サルーテ教会、もう一方にはサン・マルコ大運河が海と交わり、もう一方には小さな島が3,4つポンポンとなんとも言えない間隔で浮かんでいる。風も強く涼しいため、サン・マルコ広場の鐘楼とは比べ物にならないほど最高。人もほとんどいないためにゆっくり時間をかけて見られる。この島には小さな公園のような所もあけど柵があって入れない。今まで時間に追われて回っていた事もすべて忘れてしまうほどすばらしく最後の最後に行くことをお勧め。”一見は百聞にしかず”です。ラビア宮の近くに宿を取った人は橋を渡った所をすぐに曲がるとスーパーがあるのでうまく使おう。ここはイタリア一安かった。小さいけどコーラの500mのボトルが120円ぐらい。昨日ローマ広場に行くとびっくり。ここはヴェネツィア中でも車が走っている。車のない道になれてしまうと驚いてしまう。後は駅からオーストリアのインスブルックへ。3回も入国して1週間以上滞在したけど、とても暑くて歩き回るのは結構つらかった。イタリアはやはりイタリアだった。 |
 マーケットで絵を描くおばあちゃん
 131.サン・ジョルジョ・マジョーレ教会からの景色
 131.Vol2 |
|
 ヴェネツィア → インスブルック |
|
|
 イタリア人とは?  |
|
|
矛盾と対比の国イタリア。裕福な北イタリアと貧しい南イタリア、古代ローマ遺跡とランボルギーニ、フェラーリ。 それに加え旺盛な食欲と垢抜けたファッションセンス、これがイタリア。町並みは歴史が感じられる中世の趣を残している物ばかりだけどそれと同時に汚くすすけている臭い裏通りがすぐに思い浮かぶ。彼らの国が世界一だと思っている国民、イギリス人(イングランド人)、フランス人、ドイツ人でさえイタリアの歴史には引かれる。(中国人、アメリカ人も同じく)そこにはより古い歴史を持つギリシャとはまた違うイタリアがある。自分が思うにヨーロッパ人にとってイタリアとギリシャの歴史の違いの一つは芸術。ルネサンスを筆頭にイタリアにはありとあらゆる芸術がありそれに加えてオペラもある。同時にローマ帝国の及ぼした影響の大きさが今もヨーロッパには残っていて、町の歴史自体がローマ帝国の占領によって始まった所が山ほどあり、闘技場や古代劇場などのイタリアの建築物がヨーロッパ各地に今も残っている。自分が感じたイタリアは料理、遺跡、汚く古い町並み、ファッショナブルではなく小汚いイタリア人、常識とか言う言葉から程遠いイタリア人、底無しに明るく大声で両腕(体?)を動かしながらべらべらしゃべるイタリア人に、垢抜けてなんとも言えない表情豊かなイタリア人。こんな小さな国に(日本から北海道を抜いたぐらいの大きさ)これだけ密度の濃い歴史が残っていて、かつコロッセオを中心に1000年を越える遺跡が数多く今も残っているのにはただただ愕然。イタリア人自体はいかにも南の国の人らしく時間にこだわらず人生を心底楽しんでいるという感じ。残念ながらあまりイタリア人は礼儀正しい人ばかりでなく、列車の禁煙車でたばこを吸う人や、切符売場で横入りをする人、小汚い格好をしている人から喧嘩っ早くせっかちな人も少々。英語を喋る人はあまりいなくて、いたとしても日本人の喋る英語よりもひどいロボットが喋るような英語ばかり。イタリア人が英語を喋るとイギリス人のように礼儀正しくなるのは面白い。(イギリス人に対して”イギリス人とは?”で散々言ったけど日本人と比べての話しで実際彼らは礼儀正しくヨーロッパ人らしい身の振る舞いをするので少し時間を置けば付き合いやすい人たちです。) |
|
 8月23日 ちょいさぶ ユース   |
|
|
チロルの山とイン川に囲まれたこの小さな町は64年と76年の2度の冬季オリンピックの開催地として有名。(インスブルックとは”イン川にかかる橋”の意)ハプスブルク家によって築かれた旧市街が中心地。後は山、山、山。
インスブルックに着いて3時間程駅で待つ。着いたとたんにかなり寒い。 急いで長袖とジーパンを取り出す。駅で時間をつぶしているとオーストリア人がエロ本をいきなり差し出す。(一応頂いたけど面白くなかったので捨てた)8時頃から市内観光開始。このインスブルックのプラットホームからはオリンピックで使われたジャンプ台が南の山に見える。駅から見ると結構小さいけど。まず駅から 132.凱旋門(3)に向かって歩いてみる。この凱旋門は大きな物ではなく、新しいビルに囲まれて少し寂しげに立っている。中央郵便局で切手を買って手紙を送った後はマリア・テレジア通りへ。 133.聖アンナの記念柱(2)(Annasäule)も小さな物でパッとはしなかった。この町自体とても小さいのでなにもかもが小さく、こじんまりしている。 134.ヘルブリング・ハウス(2)(Helblinghaus)はこじんまりしたきれいな建物。 135.ゴールドナー・アドラー(2)(Goldner Adler)は有名人が泊まったホテルとか。ホテルの前に泊まった人の名前が刻まれていたけどいくら探しても自分の知っている名前はなかった。その後は 136.黄金の小屋根(2)(Goldenes Dachl)へ。重要なところが修理中らしく垂れ幕に絵が書いてあった。ここまでほとんど人にも会わなければ通る車もほとんどない。 137.王宮教会(3)(Hofkirche)の中はなかなか面白い。両脇に鉄でできた銅像がいっぱい並んでいていろんな衣装に身を包んでいる。その横にある 138.チロル民族博物館(3)(Tiroler Volkskunstmuseum)はまた少し変。基本的にはチロルの衣装などを展示している美術館だけど1階にはグロテスクな現代アートが特別展示してあった。アートといっても絵画などではなくてアーティスト自体が血を飲んだり内臓らしきものを腹にのせてぐしゃぐしゃもんだり...とにかく変。2・3階がメインだけどこれまた少し変。展示物の間に現代アートがぽんと置いてあったり、いたるところにチロルの人形が置いてあったり。これがまた無表情で気味が悪い。人もほとんどいないし館内の匂いが独特で全体的に気味が悪すぎ。 139.王宮(4)(Hofburg)はオーストリアの王家、ハプスブルグ家がいた居城の一つでマリア・テレジア一色。いたる所に肖像画がかけてあるけどこの街同様にこじんまりしていた。そこからは少し散歩してレオパルドの噴水、州立劇場などを見た後は王立庭園内をぶらぶら。この庭園はロンドンのものとは少し違って総てが自然に見える。チェスをしている人やボーとしている人、話をしている人がいたり。町自体が静かな所なので心が洗われるよう。ここからイン川へかかる橋へ。スイスと同じく雪解け水が流れていて灰色とも土色とも言えない色に染まって流れていた。四方を山に囲まれているためアルプスの山がどこからでも見える。目の前に迫ってくるぐらいに近く、雪は残っていなかったけど少し雲がかかっていてなかなかきれい。12時頃に黄金の子屋根に戻ると教会の聖職者が楽器でちょっとした演奏をしていた。チロル風の民謡なのか独特な音色だった。これでインスブルックの観光終了。結局とっても静かで小さな町というのが印象。すぐに駅に戻りザルツブルクへ。 |
ジャンプ台
 132.凱旋門
 イン川 |
|
 インスブルック → ザルツブルク |
|
着いてすぐにユースへ。このユースの設備はよかった。コインランドリーは24時間だしビリヤードや卓球台などが地下にあって、部屋もそこそこ広くなんといってもコインロッカーが大きくカギもついていた。夜知り合った日本人と町の中心へ。いきなり目に入った ホーエンザルツブルク城は最高にヨーロッパ的。橋を渡ってゲトライデ通りで中華料理を選ぶ。焼き飯とワンタンスープ、ブロッコリーと豚肉の炒め物。(1500円程)少し高かったけど味はよかった。お腹いっぱいになって満足。この旅最初の中華だった。大抵どこに行っても中華は食べるもの。ただひとりではなかなか行けないし知り合った人たちはお金を節約している人が多い。地元の料理も食べたいし。ユースに帰って洗濯物を見るとすべて紺色に染まっている。ヴェネツィアで買ったTシャツを入れてしまった。黒かったので白いものはすべて変色。これには参った。今まで2週間ほど洗う機会がなくて、やっと洗えると思ったらこれ。きれいな服が着れると思っていたのに。仕方なく色が着いて目立つ物は処分。寝よう。 |
|
 8月24日 ちょいさぶ ユース   |
|
|
ザルツブルクはモーツァルトを生んだ音楽の町。このモーツァルトと言う人、作品は、声楽・器楽のほとんど全分野に渡り、600曲以上作っている。ウィーン古典学派最高の作曲家の一人となり、ドイツ古典音楽を完成させた。7月中旬から8月いっぱいにかけて行われる”ザルツブルク音楽祭”は世界でも有数の音楽フェスティバル。オーストリアの中でもっとも早くローマ文化とキリスト教の洗礼を受け、ザルツブルク(塩の城)と言う名の通り特産物である岩塩の取り引きなどで栄えたのがこの町の歴史。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台にもなった。
朝からコインロッカーに行った後は歩いて旧市街へ。ただ小雨がぱらついていていたので少し寒い。 聖アンドラ教会があったけど旧市街へ行った後時間があったら。 140.ミラベル宮殿(3)(Schloß Mirabell)(サウンド・オブ・ミュージックの舞台になった)には庭園があって隅々まで手入れが施してあってきれいだった。設計上からかホーエンザルツブルク城がきれいに見える。花もちょうど見頃だったけどこの日の天気ではあまり映えなかった。中央の噴水を修理していたのも残念。ここにある美術館に入ろうと20分ほど待っていたけど月曜日は休館なのを調べていなかった。チェック不足。モーツァルトの住家に行ったけどまだ開いていない。橋を渡って 141.モーツァルトの生家(4)(Mozarts Geburtshaus)へ。モーツァルトは1756年1月27日、この地を支配する大司教の宮廷音楽家レオポルド・モーツァルトの子として生まれている。それほど大きな家ではなく彼の家がそれほど身分が高くはなかったのだろう。(中級階級市民)楽器や楽譜が置いてあった。コレギエン教会はモーツァルトの生家のすぐ後ろに立っていて、中には誰もいなかった。シーンと静まり返っていて教会らしかった。そのまた後ろにあるのが祝祭劇場。中の見学は2時からのツアーだとか。 142.聖ペーター教会(4)(St.Peter)は中もきれいだったけど外の墓地がまたきれい(?)ゲーテのお墓は教会入って右手の方。ここにサウンド・オブ・ミュージック(SOM)の家族が隠れたのかと思うと面白い。 143.大聖堂(3)(Dom)は大がつくだけあって大きく観光客も多かった。建物自体もきれいだったし中に入ると重みがある。 144.レジデンツ(2)(Residenz)は2階にギャラリーがあってフランス絵画とモダンアートなどがあったけど小さかったのが残念。ただし本館のほうは閉まっていたので特別展示会のようなものが最上階に開いていたのみ。レジデンツ広場からモーツァルト広場、モーツァルト橋を見た後は 145.ホーエンザルツブルク城(4)(Festung Hohensalzburg)へ。正直言ってここは外からの眺めのほうが中身よりいい。上に上がってザルツブルクの街並みを眺めるとおもちゃ箱のようで心がほっとするよう。中はそれほどの物ではなかった。人形劇が上演されたり軍事博物館があったり。次に行ったノンベルク尼僧院はSOMで子供達が訪ねた門などが見れる所。中には入れなかったけど。2時になったので祝祭劇場のツアーに参加。ロックホールと小ホール、大ホールを見たけどガイドがドイツ語と英語。ドイツ語の方が明らかに長かった。英語の解説を聞いていたのは自分を含めて5人のみで概略を説明してたけどほとんどドイツ語を聞いていたようなもの。絶対に薦められないつまらないツアーだった。その後メンヒスブルクをうろつくけどこの頃から雨がぱらつき始めて次第に強くなってきた。メンヒスベルクの階段は”ドレミの歌”を家族が練習した場所。結局見つけられなかった。その後 146.モーツァルトの住家(5)(Mozarts Wohnhaus)へ。モーツァルトが7〜24歳にかけて8年間を過ごし、多くの作品がここで生まれた。第2時世界大戦で爆破されて以来そのままだったけど日本企業の寄付によって復旧されて96年1月に再公開された。かなり大きな建物でいろいろな展示物の中をコードレスヘッドフォンを聞きながら見て歩ける。エリアごとに音声を受信するようになっているので展示物を変えると曲も変わるように工夫されている。ただそれほど性能がよくなかったのでヘッドフォンの傾き具合で聞こえなかったりしたのがもう一つ。最後にモーツァルトが旅した場所を大きな地図で見ながら曲を聞くことができる部屋が設けられていてここで日本語の解説を聞きながらゆっくり楽しんでいるとビデオが始まるとか。隣の部屋が最後の部屋でここは全体を通してモーツァルトの人生や旅を紹介していた。元々それほど高い身分でなかったモーツァルトが父レオポルドの英才教育によって世界でもっとも有名な音楽家の一人になった。(神童と呼ばれたことは有名)姉も音楽家で二人そろってヨーロッパを旅する。街の大司教の資金援助によって支えられたり...モーツァルトも所詮は一人の人間であった事が実感できる。生家よりこちらの方がより彼のことが分かると思う。ザルツブルクの観光はこれで終わったので次の目的地ウィーンへ向かう。音楽の都として世界中に有名なウィーン。多くの有名な音楽家がここを訪れ滞在し、ここで生涯を終えた。芸術の都がパリならば音楽の都はウィーン。 |
 140.ミラベル宮殿
 145.ホーエンザルツブルク城
 ザルツブルク市内
りんご?
142.聖ペーター教会 |
|
 ザルツブルク → ウィーン |
|